川越の小中学校と、その学校に居た感覚
川越人の共通点として挙げられるのが、もし飲み屋などで川越の人と出会ったら、必ず一言めに口にするフレーズがあります。
「何中?」
というフレーズ(笑)
年代によって、自分の在籍していた中学で、出会った人たちとの力学が発生します(^^;
まあ、その力学とは何かはおいておきましょう。
さて、川越には小学校が33校、中学校が22校あります。
私は中央小だったので、その名の通り、街のど真ん中にあり、比較的商人が多くそれ以外はサラリーマン家庭が占めています。
当然、川越と言えど中央小は中心部にあるので、付近の小学校は「田舎」という天狗な部分もあったり無かったり。
在校時は全く意識しておりませんでしたが、中学にあがり他所の小学校出身の友達曰く、「そんなことだと中央小の奴らに置いてかれるぞ!」と言われることもあったようです。
”ほんとかよ?”と今でも思うのですがね(^^;
40歳も過ぎ、改めてウィキペディアなどで川越の小学校を調べてみると、学校数は小学校のときからの記憶でほぼほぼ合ってました。
しかし、実際に見たことがある小学校と無い小学校があったりします。
中央小なので、私の感覚では「川越小」「第一小」(実は、この二校は小さな道を挟んで向き合っており、士農工商的な理由から別々になったという謂われがあります)「月越小」「仙波小」「泉小」などはすぐ分かりますが、「広谷小」「西小」などは、知りませんでした。名前は聞いたことがあるくらい。。。
先日、初めて広谷小や芳野小をこの目で見たときは、感動したものです。
1980年代、相当数の児童がいたわけですから、なぜか川越に住んでいながら、これらの学校出身者と出会ったことがありません。
いったい、どんな学校生活を送っていたのか、興味深いものがあります。
私のいた中央小では、キン肉マンが流行ればキン消しを学校に持ってきて交換したり、新富町のデパートやスーパー(当時だとニチイや長崎屋、西友ですね)に置いてあったガチャガチャが、なぜか壊れていて100円入れたら無限に出し放題という現象のもと、かなりレアなキャラを持っていたのを覚えています。
それを、塾で知り合った他の小学校の生徒に自慢したり(^^;
ビックリマンチョコのマジャリンコで、同級生が応募したら採用されてシールになってしまったり。。。
ファミコンはクラスの男子20人のうち18人が持っていて、持っていない2人のうち1人はセガだったり。。。
遊び場所は、行ってはいけないと言われていた新富町やサンロードのゲーセン、丸広でドロケイ、丸広の駐車場を勝手に自分たちの球場化してソフトボールをするなど、好き勝手なことばかりしていました。
入間川などや新河岸川などへ遠征すると、そういう時に限ってクラスメートの女子に見られてしまい、「学区外を自転車乗ってました」と翌日の朝の会でチクられて先生に怒られる羽目になります。
外で遊べと言われても、外で遊べば怒られるのです。
学校の校庭で野球したくとも上級生が使っていれば、丸広の駐車場(水曜日限定でしたが)でするしかなく、それも怒られる訳ですから、ファミコンするしかないのです。
泉小や今成小の友達などに話を聞いてみると、皆々学校帰りに畦道を歩いて遊んだりしていたようです。
私など、通学路にあったモスバーガーや31のアイスクリームで買い食いしたりでしたが。。。。
余談ですが、川越市の小学校は戦後すぐと私たちの時代80年代では名称が異なっているのがありました。
川越小→第二小
中央小→第三小(クラス名は現在でも松竹梅)
仙波小→第四小
泉小→第五小
だったかな?
前述した、川越小と第一小が小さな道を挟んで向かい合っているのは、実は昔、藩校として開校したのと川越商人が開校したのと由来が異なり、まあ、明治維新の頃、士農工商という立場柄、色々とあったのでしょう(苦笑)
先日、子供の陸上競技大会を観に行ったのですが、驚いたことがありました。
私の在籍していた中央小はクラス名が松竹梅だったのですが、川越では唯一クラス名がナンバリングではないと思っていたものの、芳野小がなんと、東西南北名なのですね!!
あれには驚いた。
さて、中学にあがると、私の在籍していた富士見中には中央小、月越小、泉小及び今成小の生徒が合体します。
遊び場はもちろん、新富町がサンロード。
今でいうクレアモールです(川越人として、クレアモールとは意地でも言わない(^^;)
ウィキペディアで調べてみると、やはり最近になって初めて知った中学名がありました。
川越市立川越西中と川越東中。
特に、東中などは1960年代に開校されているようです。
全く知らなかった(^^;(^^;(^^;
川越市の成り立ちとして、周辺の町村を吸収合併して大きくなってきているので、そられの地区名がそのまま中学校の名称になっている場合が多いのです。
大東村の大東中、芳野村の芳野中、高階村の高階中などなど。。
このブログを書いていて、ふと思い立ちました。
川越の小中学校全部を写真撮って解説付きにしてみようと(笑)
それはそれで面白い、写真付きアーカイブになるかもしれません。
【総括】
川越なんて、なにも蔵造の城下町エリアだけじゃないんです。
日々の人々が生活している、、、いわゆる明治維新後や戦後に移り住んできた人々も、この街の成り立ちに大きく関わっています。
私だって、戦前から祖父が川越に縁はありましたが、今住んでいる土地を買ったのは戦中だか戦後間もなくの頃であり、たかだか100年程度の歴史しかありません。
川越には、数百年も住んでいる方達が、城下町故にいらっしゃいます。
たかだか100年弱の在住歴でさえ、川越人としての想いがあるのですから、数百年住んでいる人であれば、尚更でしょう。
それは川越でなくとも、他の市町村であっても同じかと思います、、、と思っていたのですが、狭山に住んでいる私の従兄弟に聞いてみたら、、
「それねえ、川越だけだよ。狭山育ちって、故郷愛とか、無いんじゃないかな。俺の周りとか、狭山に固執している奴いないし、みんな狭山出ちゃってるし。。。実際、俺も狭山に家があるから住んでいるけれど、兄貴なんてとっくに狭山捨てて小平に住んでるし、、そんなもんだよ。だから、ある意味羨ましいよ、川越で。求心力があるから、みんな戻ってくるじゃない?高校の同級生で川越出身の奴も、やはり川越でつるんでいるしね」
だ、そうです。
私の生まれた都内某所の幼馴染にも聞いてみると、
「ないねえ~、だって、田舎から上京してきている連中ばかりが増えて、もともとの住民減ってるしね。昔からいる俺達と、戦後に移り住んできた三代遡ったらイナカッペのお上りじゃ、やっぱ違うよ」
だ、そうです。
地域格差や世代格差というよりも、由来格差というのもあるのでしょう(笑)
そういった意味では、田舎なりに適度な大きさな街である川越は、文化文明だけでなく、求心力があるので良いのかな?と思います。
川越祭りで集まってきますからね、友達が(^_-)-☆